行為する勇気

私はある時、偶然に鏡に映っている自分自身が食べている姿を見てしまったのです。私はそこにたとえようもないほどの浅ましさを感じてしまいました。そのように感じられてしまって以来、人が食べている光景を見てさえも、そのような浅ましさを感じられずにはいられなくなってしまいました。

私はそのことに本当に苦しみました。目の前に食べ物がある。食べたい。食べたいのに、それを食べることの浅ましさを思うと、自分自身が餓鬼になったような恐ろしさを覚えたのです。

こんな気持ちでは、何を食べてもおいしくありません。そして、人が食べている姿を見ても、それを醜いと思ってしまい、この浅ましいという気持ちはなんなのなどろうと考え込まずにはいられませんでした。私がそこから脱出できたのは、結局、生きるとは、毒を食らわば皿までなのだということに思い至ってからです。

生きることに目的なんてないのかも知れません。それでもいい。生きること自体が浅ましいことであろうとも、それでも人は生きなくてはならない。ただひたすら懸命に生きなくてはならない。今の私を動かしている根本的な動力源は行為です。何を思うと、それは結局、何にもならない。行為あってこその思いなのだと考えています。

こんなふうに考えるきっかけがありました。

 私の友人が入院したのです。私は心の底から、友人が元気になることを祈りました。毎日、毎日、気がつくと、その友人のことを心配していました。しかし、どうしてもお見舞いに行けませんでした。怖かったのです。いつも元気だった友人の病気の姿を見てしまうのがこわくてたまらなかったのです。

他の友人たちは、それぞれにお見舞いに行っていたようでした。

それからまもなく、手術は成功し、経過も順調で退院になりました。退院後、友人が初めて私たちの前に姿を現しました。その友人は、皆と目が会うなり、お見舞いに来てくれた友人たち一人一人に向かって心からありがとうと言いました。

そして、そこで分かったのは、結局、お見舞いに行かなかったのは私一人だけだったということです。私は突然、自分がひどい罪人であるような気持ちになりました。退院した友人の目の前にいる私が恥ずかしくてなりませんでした。私は友人に声もかけられません。そこから逃げたい気持ちでいっぱいでした。

退院した友人が、いつも見ていたほがらかな笑顔で私のほうへと近づいてきます。そして、私の目の前で立ち止まると、こう言ってくれたのです。

「心配かけてごめんな」

 私は、友人の言葉に涙があふれてとまりませんでした。私は友人にお見舞いに行かなかったことを土下座してでも謝りたい気持ちでした。でも、友人は、そんなことはお構いなしに、私をまだ友人だと思っていてくれたのです。

その時に感じたのです。結局、思っているだけではダメなんだと。そのときまで、行為する以上に意味ある思いもあるのではないかと、かすかな期待とともに思っていたのですが、それが間違いだったことを思い知らされたのです。

 思いがどんなに自らの中にわき上がっていようとも、伝えられなかったら意味がない。それが幾分か、芝居がかっていたとしても。私はそのとき、思うことの優しさよりも、行為する勇気をこそ上位に置こうと誓ったのでした。

 そして、今は、思いあふれる行為こそ、最上位のものと考えています。



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今が旬(2009-12-15 19:44)

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