今が旬

横井直高

2009年12月15日 19:44

 小学生のころ、私にはどうしても明るいということがデメリットにしか感じられませんでした。確かに明るい人がいれば、それによって、まわりの人を明るい気持ちにさせることもできたでしょう。

 しかし、明るく振る舞うことで決定的に見失うものがあるように思われたのです。それが、じっくりと考えること、さまざまなことに対して、徹底的に「何故」と問うことです。私は表情を作ることさえ忘れて、よく考えにふけっていました。

 小学六年生のころ、もっとも考えていたのが、どうしたら自分の感情を完全にコントロール出来るのかという問題でした。私はそのことを徹底的に考えていて、感情でなく、

「観情」

 という文字をあて、自らの情をいかに観られるかを研究していました。

 私を、みんなの明るい輪へと自然に入っていくのを思いとどまらせたもの、目の前で何人かの者たちが明るく笑いあっている声にこだますこともなく、ただ、じっと見つめさせていたもの、それは私にとっては涙でした。

 涙からいかに決別するか、それは私にとって、重大な解決すべきテーマだったのです。私は涙を極端に恐れるようになっていました。だから、人から優しい声をかけていただくことを、本当に嫌いました。ほんの一言でさえ、その優しさに涙がとめどもなくあふれ出てしまうからです。

「どうしたらいいんだろう」

これが小学生のときの、私の胸の中での口癖でした。

 私はずっと考えていって、もしかしたら、私は自分の感じ方が、他の人と極端に違っているのじゃないかと思うようになりました。しかし、どのように違っているのか。そもそも本当に違っているのか。もし違っているとするのなら、それは何故なのか。私は徹底的に考え抜いてきました。私がこうして、ひたすら哲学に打ち込んできたのも、こんなことからだったと思います。もとはといえば、涙から決別する為だったはずです。それなのに、結局、いまだに涙とは決別できていません。いつもまぶたの裏にたまって、あふれでるのを待ちわびています。

 私の何かが、世界のどんなことにも、感じてしまいます。私がさまざまなことを考えようとしているのも、この感じるということがあるためです。

 しかし、小学生のころの何にでもすぐに感じてしまう自分を過去のこととして表現したくありません。今だからこそ、感じることが必要なのだと思っています。今だからこそ、涙が必要なのだと思っています。

 過去のこととして固定化できることなんて、ひとつもありません。昔のことだと思っていることも、実は、今なのです。昔のことさえ、今、考えるから昔のことなのです。

「今思えば、若い頃は、本当に哲学に夢中になっていたよ」

 私はそんなふうには決して言いません。今だからです。今こそ、私の哲学の時期だからです。過去にも未来にも旬はありません。旬はいつも今にしかないのです。

 私たちは、幼い頃、さまざまなことに不思議さを感じ、どうしてなんだろうと感じていたはずです。

 このような問題こそ、実は、今、考えなくてはならないと思うのです。子供の頃ではわかりません。今なら、豊富な経験があるはずです。多くの知識、そして、優れた知恵があるはずです。子供のころは、解こうとすることさえかなわない問題でしかなかったでしょう。ところが、今こそ、この問題を解くべき時期がきているのだと思うのです。機が熟してきたのです。まさに旬なのです。

 私が今こそ哲学だと申しているのも、このためです。私の哲学体系は、今だからこそ出来たものです。今までの本当に多くの経験があってこその私の哲学体系なのです。

 私は、もはや暗い人間ではありません。明るい人間にもなっていません。問題を徹底的に解き明かしてやろうと、意欲満々の人間です。吐く息にも吸う息にも生きる意欲をたぎらせて呼吸しています。言葉のひとつひとつに言霊をのせて語ろうとしています。人へと、何かを伝えたくて、身振り、手振り、全身で人へと向かっていきます。

 もし、私の哲学から何かを感じ取っていただけたなら、みなさんも私といっしょに哲学してみませんか。哲学という巨大な時空で、私といっしょに過ごしていただけませんか。

You Tube「横井哲学講演会」
http://www6.plala.or.jp/swansong/2/kouennkaikiroku.html


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