生きる意味って何だろう?

横井直高

2009年12月12日 10:02

面と向かって、

「どうして自殺してはいけないのですか?」

 と問われたらどうやって答えたらいいでしょう。自分自身であろうと勝手に殺してはいけないと言いたくなってしまいます。

 でも、命がけで問いを投げ込む人の想いを、こうした言い方で丸ごと受け止められるのでしょうか。他人事ではありません。私自身が幼いときから付きまとわれた問題だからです。

「もう生きていたくない、死んでしまいたい」

 そんな言葉が毎日のように頭をよぎります。

 現実的世界だけで生きているわけではないとする宗教にすがったこともありました。天国がある、来世がある、彼岸を存在するものとして捉える世界観です。

 来世やあの世を考慮すると、私たちの生きる目的は明確になります。悪いことをすると地獄に行ってしまうから良いことをして天国に召されよう、来世をもっと良い人生にするために今世をがんばろう、と今世をどう生きるかという点について、確かな目標を与えてくれます。

 でも、そんな道しるべも来世や天国を信じられる限りです。ないと思ってしまったらおしまいです。あんなにも確かだったはずの目標、良く生きるための指針がガラガラと崩れ去ってしまいます。

「何のために生きるんですか?」

 そんなふうに真正面向いて尋ねられたら、瞳を見つめ返して力強く答えるなんてできません。声がつまって出てきません。ことばが口元で壊れてしまいます。

 重ねて、

「生きていれば良いこともあるよ、と言うけれど、そんな言葉はとても信じられません。それでもなお生きろというのなら、その意味を教えてください、生きる意味を教えてください」

 畳みかけられて、たじろがずにはいられません。

 死んだら悲しんでくれる人がいる、そう信じられるなら幸せです。死ぬわけにはいかない、生きる勇気が湧いてきます。そうではありません。誰もが幸せな人を持っているわけではないからです。

「自分が死んでも、悲しみなんて誰からも生まれやしない」

 事実はそうでないにしろ、真夜中、枕を濡らしながら暗い夢を果てしなく見てしまいます。

 何ひとつ信じられなくなったとき、どうやって生きていけばよいのでしょう。残りは死ぬことだけだと思えてしまったとき、死ぬことだけが唯一の希望に変わってしまったとき、私の生をどうやって支えていけばよいのでしょう。

 ずっと、ずっと、ずっと・・・ずっと長い間、この問いに苦しみ抜いてきました。答えが見つかりません。問いばかり、不信ばかりです。

 何十年も問いつづけ、懊悩を繰り返してきました。

 そうして、ある日、答えならぬ答えが私のもとにやってきたのでした。突然のことです。不意打ちを食らって絶望的にそいつを見つめたのでした。

 答えははじめから知っていたのです。そいつは胸の中に居たのでした。

 答えを求めて考えること、ひたすら考えつづけること、それこそ生きる意味だったのです。

 懸命に“~しつつある”こと、どこまでも“~しつつある”というその動的な姿、私はそこに哲学を見出したのです。哲学は生きる意味を教えてはくれません。強力な答えを持ち合わせているのではありません。何にもありません。

 でも、そうだからこそ限りもなく問いつづける私は、命燃やして生きてきたのでした。

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