国語の授業では、小説は、、かなりねじ曲げられてしまっているような気がしてなりません。
国語の授業においても、試験においても、決まって、下線の部分は何を言おうとしているか、とか、下線の部分の「それ」は何を指しているか、といったことが問題として出されます。そして、そのような問題に対して、かならず答えが存在します。その答えを見つけることで、その小説は授業の中で理解されたものとして役目を終わります。
本当にそうでしょうか。私が高校生のとき、国語の教科書に森鴎外の『寒山拾得』という小説が載っていました。まだ授業がこの小説にまで行っていない頃、私は何気なく読んで、読後感がとても不思議なものだったので、クラスメイトに、どのように思うか尋ねて回りました。
青空文庫:森鴎外『寒山拾得』
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/1071_17107.html
みなさんは、この小説をご存じでしょうか。天台という県に知事を命じられた閭丘胤(りょ きゅういん)が赴任を明日に控え、突然、頭痛に悩まされました。そのとき、乞食坊主の豊干が閭の家へ訪ねてきて、立ちどころに頭痛を治してしまいました。
閭は豊干を尊崇し、豊干の出身を尋ねると、天台と言います。天台ならば、これから赴任しようとしているところだと言って、天台にも、会うに足る人物(豊干のような)がいるかと聞くと、豊干は国清寺にいる寒山と拾得だと答えます。 それから、頭痛から癒えた閭は、天台に赴任すると、さっそく、国清寺に赴いて、住職に寒山と拾得に面会を申し出ます。ところが、寒山も拾得も寺では決して偉い僧ではありませんでした。拾得は僧たちが食べた食器の皿洗い、寒山は、その皿についた残飯を拾得からもらって、ようやくしのいでいる者でしかありませんでした。
しかし、あの豊干が会うに足るというのなら、よほど偉いのだろうと思いこんで、ぼろぼろの服を着た寒山・拾得の前にでると、うやうやしく一礼し閭はこうあいさつしました。
「朝儀大夫、使持節、台州の主簿、上柱国、賜緋魚袋、閭丘胤と申します」
と、ものものしくあいさつした閭を見て、寒山と拾得は、腹の底から笑うと、
「豊干がしゃべったな」
と言って、まるでいたたまれないような顔をして逃げて行きました。
閭は逃げていく寒山と拾得を呆然と見守り、閭のそばにいた住職は真っ青な顔をして立ちすくんでいたと言うのです。
たわいもない話といえばそれだけですが、最後の
「豊干がしゃべったな」
というところで、寒山拾得は、豊干が目の前の閭に何をしゃべったと思ったのか、どうして寒山と拾得は逃げていったのかが分かりませんでした。そこで、クラスメイトに聞き回ったのです。みんなも謎解きのように面白がって、たちまちクラス中が寒山拾得の話題で持ちきりになってしまいました。みんな、さまざまな意見を言います。誰一人、同じことを言う者がありません。誰もが俺の考えが一番だと言って譲りません。
国語の授業も、いよいよ、寒山拾得を扱う時がきました。みんな、この時を待ち遠しくおもっていたので、真剣に先生の話を聞きました。みんな、何としても先生の口から、
・寒山拾得は豊干が何をしゃべったと思っているのか
・なぜ、うやうやしく礼をして、自己紹介する閭を前にして寒山拾得は大笑い
し、逃げていってしまったのか
の二点について、答えを聞きたいと思って、耳をそばだてています。
そして、ついに先生の口からこの答えが言われるときがきました。クラス中に緊張が走ります。みんな自分の考えが一番正しいと思っていたので、先生の口から自分の考えと同じ回答を聞きたかったのです。四十人の目が先生の口を見つめます。先生もその異様な雰囲気を察したのか、言おうとして少し開けた口を閉じると、クラスのみんなを眺め回しました。そして、誰もが真剣に自分の答えを待っていることを感得したのか、荘重に文部省からでている解説書を、一字一句誤りないように読み上げました。
そのときです。クラス中が大騒ぎになってしまったのです。だれもが口々にこん
なふうに言いました。
「そうかあ、そういうことかあ。でも、そりゃないよなあ、なんだか反則だなあ」
と。
先生が目を皿のようにして、一字一句間違いないように読まれた文部省作成の解答は、生徒全員、確かにそのとおりだなと思われました。しかし、どうしても腑に落ちないのです。確かにその通りかも知れないが、そこには何か大事なものが抜け落ちてしまっているのではないか、、もしそれが抜け落ちてしまったのなら、もはや、どんな答えも言葉でしかなくなってしまうような何か、そんな思いを生徒の誰もが抱いたのでした。
でも、それが何であるのか、誰一人、言葉にすることができません。みんな、もどかしげに
「先生、それってちょっと違うような気がするなあ」
と言います。先生もそれに答えて、
「先生も聞きたいから、どう違うか、言ってみなさい」
と、言ってくれるのですが、誰も言えません。言葉にならないのです。言葉として形容できないのです。生徒全員、どうしても言い表せない「それ」を喉の奥にひそませて、身動きもできず、じっとしています。
先生は拍子抜けしたように、
「なんだ、わからないじゃないか」
と苦笑しながら言ったところで、授業の終わりのチャイムが鳴り、そこで断ち切られたように授業は終わってしまいました。
先生が教室から出て行って休み時間になると、生徒たちは、もう寒山拾得の話をするものはありませんでした。誰もが何をいうでもなく、席に座ったまま動こうとしません。ぼんやりと先生が黒板に書かれた文字を見つめています。
誰もが無念を感じていたのです。先生の答えは確かに正しい、でもそれだけじゃない、もっと大事な答えがある、ここまではみんな分かっているのに、それを言葉によって表現できない、それは語彙を知らないのではなく、そもそも言葉にはそのような気持ちを言い表すことができないということを思い知らされたからです。あのときは本当に不思議な授業でした。それは生徒全員の思いだったに違いありません。
小説には、確かにこのような一面があると思われるのです。国語の授業において、先生が国語として教えなくてはならない大事なもの、しかし、それは決して表現することのできないもの、教えようとしてもできないのに、しかし、それを教えなかったら、そもそも国語を生徒たちに教えたと言えなくなってしまうもの。
それは、決して下線を引いた部分は何を言おうとしているのか答えなさいという設問にはできないものです。もしそれが設問として問われるとするなら、もはや
「わからない」
としか答案用紙に書けないような、そして、「分からない」と書くことこそ、実
はもっとも正解に近いような、そんな答え方があると思うのです。
文中の「それ」は何を指しているかなんてどうだっていいことです。生徒たちに生々しく感じ取らせること、国語の授業において、本当は、これだけを教えられるなら、もうその授業は大成功だったというべきではないでしょうか。